日々の出来事を記録。
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11/23
専門学校時代
まるで学園劇画の主人公になったみたいな気分を味わっていた高校時代を卒業すると、私は専門学校・千代田デザイナー学院へ入学した。
 そしてここで現在まで仕事の上でも付き合いを続けている平野俊貴氏、千之ナイフ氏、まがみ蛮氏、金田益実氏らと知り合う事となる。
 

 金田氏は特撮に造詣が深く、特撮番組サブカルチャーの担い手であった安井尚志氏の元で仕事を手伝い、この頃すでに業界に半分足を突っ込んでいたので、私は彼から特撮情報を聞くのが楽しかった。
 平野俊貴氏はアニメに詳しく、私はこれまでアニメについての知識はほとんどゼロだったので、彼からアニメのノウハウを聞き、勉強するのが楽しかった。そう、本業の勉強そっちのけで、アニメ・特撮にのめり込んでいったのだった。特に平野氏は毎日のように学校に超合金のオモチャを持ってきて、我々はそれで授業中遊んでばかりいた。授業でどんな事を習ったか?はまったく憶えて無いが、授業中の思い出といったらゲッターロボやグレンダイザーの超合金のオモチャで遊んでばかりいた思い出しかない。

 授業以外でも彼らと遊び歩き、平野氏に連れられてアニメーション製作現場である東映動画(現・東映アニメーション)へ見学へ行き、演出の明比正行氏を紹介してもらったり、アフレコ録音スタジオ「タバック」へ見学へ行ったりと、毎日新しいカルチャーを得るのが楽しかった。彼はその頃からすでにアニメ業界に色々コネをつくっていたのかも知れない。

 そして文化祭の発表課題として、アニメーション作品を発表する事に決定。平野氏が陣頭指揮をとって製作し、私が8ミリ・カメラ(8ミリビデオではなく、当時のフィルムを使ったもの。)を持っていたので、作画と撮影を担当する事となった。ストーリーも平野氏がつくり、宇宙の王子が魔王にさらわれた姫を救い出すという、オーソドックスな話で、タイトルは「銀河の王子」というもの。
 私は凄いアニメになるだろうと想像していたが、結果出来上がった物は、映像の紙芝居を部分的に少し動かした程度の物だった。そこで文化祭当日は、出し物はそれだけでなく、「姿34ROH!(サンシロー)」という舞台劇も即興で公演し、主役・三四郎は女の子が演じ、私はカタキ役の桧垣源之助を演じ、三四郎役の女の子に投げ技「山嵐」を教えて私が上手くリードして投げられたりしたものだった。

 その後今度は平野氏は「銀河の王子」をマンガにしよう!と言い出し、みんなで手分けして授業中「銀河の王子」のマンガを描き始めたのだった。これまた今にして思えば彼は、伝説の漫画集団「作画グループ」みたいに合作漫画で出版界へデビューしようと画策したのかも知れない。
 ・・・しかしその、肝心の平野氏は、金田伊功氏のアニメ会社へ就職が決まるとさっさと戦線離脱してしまい、おかげで「銀河の王子」のマンガは宙ぶらりになってしまったので、千之ナイフ氏に手伝ってもらいながら後半私がデッチ上げて完成させたのだった。

 ・・・・・まあ、こんなカンジの専門学校時代だったので、これまた高校時代に続き、好きな事ばかりやっていた毎日という思い出だった。
・・・しかしこの頃、録音スタジオ「タバック」へ行った時など、すでに声優目当てで見学に来ていたファンなどが多数居て、来るべき「アニメ・ブーム」の予感みたいなものは感じていたのだった。

イラストは、この「銀河の王子」のキャラクター紹介。
銀河王子

11/23
1974年高校時代の思い出。
空手同好会合宿



この頃はあのブルース・リーの映画「燃えよ!ドラゴン」の大ヒットで空前の「空手ブーム」が起きていた。正確にはキックボクシングや少林寺拳法、そして空手といった、打撃格闘技のブームだったのだが、便宜上「空手ブーム」と呼ばれていた。
 んで、私のクラスと友人の工場に、台湾から来た中国人に従業人が居て、中国拳法の「形意拳」というのをやっていたので、当時未知の格闘技である中国拳法が珍しく、私はさっそく習う事にしたのだった。(中国本国では『文化大革命』によって、武道などは前時代的で封建的なものとして迫害されたので、武道家達は香港や台湾へ逃れたそうだ。)

 その人の住いは大宮だったので、私は毎週日曜日になると地元の栃木県から大宮まで通い習っていたが、そのうち学校でも堂々と練習したいと思うようになり、「部活にしてしまえ!」と考えた。
  で、ホッケー部担任の先生が「松涛館空手」をやっていたのに目を付けた。その先生は若く血気盛んで、本宮ひろ志先生の「男一匹ガキ大将」が大好きで、よく構内で大声で主題歌を唄っていたという豪快な先生であり、学校の不良どもから「ヤクザマン」とアダナされ(額に剃り入れていた!)歴代の不良連中から「あのセンコーにゃ逆らうんじゃあねえ!」と恐れられていたのだった。その先生をそそのかし、「空手同好会」を立ち上げる事となった。
 なんせ「空手ブーム」である、堂々と暴れたがっている腕自慢連中はワンサカと居て、あっという間に予定人数以上の人間が集まり「空手同好会」は発足した。
 ・・・とはいえ「空手ブーム」である、集まったのはキックボクシングや少林寺拳法、そして極真空手といった様々な他流派同士の連中。突き一本、蹴り一発、それぞれフォームがバラバラ、オマケに皆「己の流派こそが最強!」と信じているから誰も直そうとはしない。だから組み手のスパーリングの時は、毎日が「K−1グランプリ」状態だった。
 また、私も正直不良生徒連中と付き合いが無かったワケではない。しかし不良連中とトグロを巻いて、夜遅くまでゲーセンで遊んだり、女の子をナンパして回ったりしていたワケではなく、不良連中に腕っぷしの強そうなヤツがいたら「空手同好会」に入れて可愛がってやろうと考えていたのだった。
 そんな理由もあり、他校生徒とトラブルが起きる事もあった。そのケンカだが、またまた「空手ブーム」である、ケンカ相手も何かしらの格闘技をやっており、「己の流派こそが最強!」と信じているので自分の格闘技で相手を倒そうとするから、一対一のスパーリングみたいなケンカになり、今にして思えば実にフェアなケンカだったと思う。
 だが、中々勝負がつかず、業を煮やすと私は、カバンの中にナイフよけとして鉄板を入れてあったのだが、これを水平に振り回し、相手の側頭部へ打ち込むと、これがよく効くんだ!(笑)やっぱケンカは最終的にこーゆー手が一番ですな!(笑)

 ・・・そんないきさつで作った「空手同好会」であったが、今では正式の「空手部」となり、技も「松涛館空手」に統一され存続している。創立者の一人としては嬉しい限りだ。

上の写真は「空手同好会」で合宿した時のもので、地元の山「唐沢山」で行った。

 この山はあの、京都で平安時代、超巨大ムカデ怪獣を退治したと云われる俵藤太こと藤原秀郷公の居城「唐沢城」があった山で、写真の場所は「天狗岩」と呼ばれる、見晴らし望楼跡。
 今でも関東平野が良く見渡せられる。
11/23
右翼中学生?
中学に上がると私は「剣道部」に入部した。本当は柔道を続けたかったのだが、学校に「柔道部」はなかったからであるとともに、防具を付けたファッションが「侍」になったみたいで、いわば私は「見た目」から「剣道部」に入部したといえる。
 この頃は「スポ根ブーム」と呼ばれる、先に紹介した「柔道一直線」をはじめ、同じ梶原一騎先生原作の不朽の野球劇画「巨人の星」、サッカーの「赤き血のイレブン」キックボクシング「キックの鬼」といった作品や、女の子達にもバレーボールの「アタックNo1」「サインはV」等々が空前の大ヒットしていた。

 それらの作品は、苦行のような過酷なトレーニングで技術を向上させ、欠点を克服し、それらを支える精神力は「根性」によって強化されていくというものだった。
 これぞ「スポーツ根性物=通称・スポ根」ブームとなって広まっていったのだった。

 先に「侍みたいなファッションだから。」と述べたが、私は剣道に打ち込むと共に古き日本の文化への傾向も深くして行ったのだった。
 剣道ばかりでなく先の柔道も、劇画「柔道一直線」からスタートして、柔道ドラマの古典「姿三四郎」シリーズも読み始め、柔道の成り立ちを研究していくと共に大きくカルチャー革命が起きた明治時代から溯り、武田信玄、上杉謙信といった戦国武将をそれぞれヒーローとして描いた小説、井上靖の「風林火山」や海音寺潮五郎の「天と地と」といった作品に思いを馳せ、古き日本への造詣を深めていった。
 
 とはいえ、古き日本文化を見直すべきだ!という考えがいささか暴走し、欧米の外国文化に毒されてはならんッ!という方向の考えに向かい、小学校を卒業したばかりでどうやら私は右翼中学生になってしまったようだ(笑)洗脳でも教育されたワケでもなく、自発的にそうなってしまったのだから仕方ない。まあ、小学生の時に観たアニメ「サイボーグ009」の、旧・日本海軍の連合艦隊が復活する話「太平洋の亡霊」を観て「こんなに素晴らしい帝国海軍が、なぜ負けたんだ?」と思いつつ感動していたので、その素質はあったのだろうが・・・。
 それだから、英語の授業など、「欧米文化の象徴たる英語など、覚える必要なしッ!」と完全拒否!(ホントはただ勉強したくなかっただけ。)などと、ちょっと問題児だったんじゃないかなあ・・・。

 まあ、国家権力に立ち向かう、左翼の方々の反骨精神にも感銘を受ける部分もあるが、(今だ現役チャキチャキの極左精神を失わず、『美味しんぼ』の作者・雁屋哲氏の名作『男組』は私の大好きな劇画である。)しかしこの時期60年代末〜70年代初頭にかけては学生運動の盛んな時であり、「連合赤軍」といった極左団体の「浅間山荘事件」をはじめ、日本中至る所でテロ活動を行っていた頃であり、政治には詳しくない私の頭には、そんな左翼集団は「悪の軍団」としか判断できなかったのだった。
 ・・・しかしその後、憧れた帝国海軍等も更に深く色々調べていくと、様々な問題点も多々見つかり、盲目的に崇拝する心からは冷めていったが・・・。

 もっとも71年に入ると、「スペクトルマン」「帰ってきたウルトラマン」「仮面ライダー」といった特撮ヒーロー番組が再び製作され、「第二次怪獣ブーム」が起こった。が、この時、前回の怪獣ブームと違う点は、巨大怪獣と戦う巨大ヒーロー番組も多く制作されたが、同時に等身大のヒーローが怪人と戦うという図式の「仮面ライダー」に代表される作品も数多く製作され、それらは人間からヒーローに「変身」する様子も見せ場の一つとして強調された作りになっていたので、別称・「変身ブーム」とも呼ばれるムーブメントとなって広まっていったのだった。
 特に、先の「第一次怪獣ブーム」と違う特徴の代表格たる「仮面ライダー」の大きな特徴は、アクション・シーンにトランポリンを多用したジャンピング・アクションと、殺陣の華麗さであった。これは「柔道一直線」で立ち回りを担当した「大野剣友会」が、必殺技で投げられた相手の表現として使用した、トランポリン・アクションの発展型であり、ともすればドロ臭くなる柔道アクションを華麗な動きで表現した経験から、「仮面ライダー」ではさらにキレ味の良い打撃アクションに発展させて表現していたのだった。
 もうひとつはバイク・アクションであった。これは番組スタート前、「モトクロス・ブーム」も起こっており(あの官能劇画作家の村祖俊一先生も、鳴神俊名義でモトクロスバイク漫画「モバック」を連載してヒットを飛ばしていた。)、競技場の中で走るレースではなく、様々な過酷な地形でスピードを競い合うオフロード・マシンのモトクロス・レースが流行したので、「仮面ライダー」のスーパー・オートバイ「サイクロン」は荒地の中を走り回っていた。
 更に加えて、毎日放送のプロデューサーが戦時中は「伝令兵」を勤めていた過去があり、伝説のスーパーバイク「陸王」にまたがり、「情報」を持って中国大陸を走り回っていたという。それで番組試写を観るたび、「あんなのは、まだ本当のバイクの走りじゃないッ!本物のバイクの走りはもっと違うんだッ!!」と、番組スタッフに発破をかけていた。それで「仮面ライダー」のバイク・アクションもエスカレートして、おなじみの「爆発の中を走り回るサイクロン!」という映像が誕生したが、これは毎日放送のプロデューサーが戦時中、爆弾や砲弾が飛び交う爆発の中、地雷原を「陸王」で走破した経験が元になっているという。
 その他に、地元の「足利東宝アサヒ座」という映画館で「東宝チャンピオンまつり」等を観ていたのだが、ここの映写技師が「妖星ゴラス」から「ゴジラの息子」まで東宝の撮影班に居た人で、私はその人と仲良くなり、円谷監督の話を聞くのが楽しみだった。・・・なんでも円谷監督はとても厳しく、おっかない人だったという。我々ファンの立場だと、にこやかに写っている写真のイメージしかないので、「厳しく、おっかない人」というのはギャップを感じたものだった。

 こうして再び怪獣やヒーローに熱を入れ出した私だが、特撮も日本文化の代表だ!という意識を強め、日本特撮を愛する「特撮右翼」たる気持ちを高めていったのだった。

 ・・・・・と、言っても海外特撮を否定していたワケではありませんよ。この頃から「サンダーバード」や「スティングレイ」といった、ジュリー・アンダーソン作品から「吸血怪獣ヒルゴンの猛襲」といった作品まで大好きですから(笑)

擬人化大和就任

擬人化大和砲撃


作画イラストは「擬人化兵器サイト」に投稿した「戦艦大和」の擬人化イラスト。 
 「戦艦大和」は自分にとっても子供の当時より、「怪獣」と同等のカリスマだった。・・・なんせ「ガンプラ」の存在しないご時勢であったので、「0戦」と「大和」はプラモデルの一流ブランドだったのだ。 
 ・・・なぜ戦艦の大和が女性に擬人化されるか?と云うと、イギリス海軍に習い、船は女性に擬人化されるもので、勇ましい戦艦であっても例外ではありません。「航空母艦」=「空母」や、「姉妹艦」という名称はあっても「父艦」「兄弟艦」てぇのはありませんから(笑)
 それにまた日本には「船魂信仰」というものも太古からあり、「船に宿る魂は女神」というものなので、いずれにせよ船の女性に擬人化は当然というべきかな?

 上のイラストは大和の「連合艦隊旗艦就任」のイメージ。下はフィリッピン奪還「捷号作戦」で唯一敵艦砲撃が行われた「サマール島沖海戦」。  トマホークを構えるネイティブな娘は、ネイティブながら艦長にまで上り詰めたアーネスト・E・エバンズ中佐の駆逐艦ジョンストンの擬人化少女。
 大和以下、連合艦隊の戦艦部隊にとって、最後の大作戦「捷号作戦」発動で、偶発的に起きたサマール島沖海戦での、大和最初で最後の、伝家の宝刀・46サンチ砲唯一の敵艦への射撃です。
 洋上世界最大の巨弾を喰らい、孔だらけになっていくジープ空母ガンビア・ベイちゃんを守るため、ネイティヴのエバンズ艦長指揮する駆逐艦ジョンストンちゃんが果敢に挑みかかって行きます!まだ人種差別の激しかった米海軍内で、ネイティヴながら駆逐艦の艦長に登り詰めたキャプテン・エバンズのサクセス・ストーリーも敬意を表します。
11/23
柔道少年時代
 怪獣ブームも、やがて70年代を向かえようとする69年頃には下火になっていった。私としては怪獣が好きである事は変わりないのだが、怪獣ごっこの延長で、現実にゴジラやウルトラマンのように強くなりたいという本能は強く働いていたので、そんな時に興味を持ったのが「柔道」であった。
 これもまあ、キッカケは梶原一騎先生の原作漫画「柔道一直線」を読んで影響されたものだが、「柔道」の魅力は何といっても「柔良く剛を制す」のモットーで、体の小さい人間でも大きくて力の強い人間を倒す事が出来るという点だ。
 それまでSFの漫画や小説で描かれた、念じるだけで物を動かしたり相手を吹き飛ばしたりする念動力=サイコキネシスといったESP能力などと違い現実のものだというのが魅力であった。
 で、さっそく柔道を習い始める事となった。
基本の受身から始めて腰を使ったり背負い式の投げ技を練習していくと、「乱取り稽古」といって、お互い技を掛け合うスパーリングを行うのだが、私は投げる事より投げられるほうが上手くなり、受身が一番上達した。

   元々柔道の前身は柔術という、武士が刀を持たない時の素手の武術であり、柔術は格闘技としても武道としても優れた徒手技術だが、大事な戦闘術だから、他人に技を見られると技が盗まれたり破り方を研究され編み出されたりするので、企業機密として許せる人間にだけ教えた一子相伝や、その藩の武士だけに教えた「御止流」といった幻の秘術だった。
 それを嘉納治五郎師範が誰でも学べるように作り変えた物が「柔道」である。
 嘉納治五郎師範の「柔術改変」の部分で一番凄い点は、柔術の秘伝に「崩し」というのがある。これは相手のパワーや重心・体重移動を意図的に崩させる仕掛けの事なのだが、「柔道」ではその「秘伝」を「基本」にしてしまい、誰でも柔術の秘伝を真っ先に教わり練習する事が出来た。
 そうやって神秘のベールに包まれていた柔術に科学のメスを入れ、「柔術を科学する」という形で力学的にテコの原理等が組み合わさり技が構成されているのが「柔道」だった。そしてスポーツという新しい概念を入れ、加えてレスリングのスパーリング・システムを導入、自由に技を掛け合い誰でもエンジョイしながらその技術と精神を学べるというものだった。
 ・・・とはいえ柔道の創始当時は武道的要素が強かった。そもそも柔道のルール「投げられて背中をついたら一本」というのも、路上の戦いで投げられ背中から叩きつけられたら立ち上がれないだろうという、ダメージ効果を想定してのルールで、柔道は本来ストリート・ファイトを考慮に入れて作られていたのだった。
 警視庁で行われた試合など、時間無制限、勝負の決着はどちらかが「参った!」と言うか戦闘不能状態とみなされる場合のみという、ギブアップ完全決着制。審判無し、試合を判定する権利は与えられていない、見届け立会人のみという、まるでかつての御前試合のような試合が行われたという。
 
 嘉納治五郎師範は積極的に柔道を世界へ普及させる活動を行い、小説「姿三四郎」の富田常雄の父・富田常次郎や、「グレイシー柔術」の祖となったコンデ・コマこと前田光世など海外で活躍する柔道家も多く輩出され、柔道は国際的スポーツとなった。

 しかし現在柔道は国際的に広まったが、残念ながら創始当時の「武道」としての要素はちゃんと伝わらず、「肩が付いたら負けというルールのレスリングと似たスポーツ、そういうルールのスポーツだ。」という認識で広まってしまったのだろう。
 元々嘉納治五郎師範は、柔道はストリート・ファイトに対応出来る護身術をスポーツとして学べるようにする目的だったので、「打撃技」も考慮に入れていたのだが、怪我のリスクの高い打撃技はスパーリング・システムに導入する事が出来ず、「型」の稽古のみになってしまったので真のストリート・ファイトに対応出来る護身術になれなかった。
 だから現在の「プライド」などの試合で行われている総合格闘技こそが、柔道のひとつの完成形なのかも知れない。

柔道少年

11/23
怪獣ブーム /怪獣少年時代
 私が少年時代に「怪獣ブーム」は起こった。それはウルトラ・シリーズの「ウルトラQ」が始まった事がキッカケで、それまで「怪獣」といったら東宝のゴジラを初めとする怪獣シリーズが映画で観賞するものという状況だったのが、「ウルトラQ」のTV放送によって、毎週怪獣をTVで観られるという現状に変わったからこそ起きた現象と言える。
 
 私が始めて「怪獣」なるモノを観たのはゴジラであるが、その時はまだ脳内に「怪獣」なる概念は無かったので、「何だ?この生き物は・・・・?」という気持ちだった。
 初めて観たゴジラの姿は、たしか「少年サンデー」の最終ページに書かれたプラモデル・メーカー「マルサン」の「ゴジラ」のプラモデルの広告写真だったが、今にして思うと、「キングコング対ゴジラ」の時のスチールに着色された物で、富士山火口内でのゴジラが正面を向いたスチールだったので、私は「荒れた大地に大トカゲが二本足で直立した写真なのか・・・?」と、とても不思議な生き物を見た気分だった。
 また、「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」の雑誌特集写真を見た時は、不気味な大ワニと原始人が格闘しているのかな?と思っていた有様・・・。
 「ウルトラQ」は父が持っていた芸能雑誌に組まれていた特集記事で初めてみたが、セスナ機を狙うペギラや壊れたダムの前に立つガラモンなど、不思議で巨大な生き物のオンパレードという印象を受けた。
 だから「ウルトラマン」に至っては、漫画雑誌「少年マガジン」の表紙の写真がファーストコンタクトだが、やはりワニとも大トカゲともつかない生き物と、白っちゃけた坊主頭の不気味な人間の組み合わせにしか見えなかった(これは怪獣ネロンガとウルトラマンの組み合わせで、ウルトラマンの顔は通称Aタイプマスクと呼ばれる皺が入った物なので、よけい不気味な謎の人物に見えただろう。)

 そんな感じで怪獣の洗礼を受けた私はアッという間に怪獣少年となったが、私は怪獣博士タイプの少年より、ひたすら怪獣ごっこに励んだ少年だった。そこで怪獣のスペックや設定に詳しい「怪獣博士の少年」が隣のクラスにいたので、その怪獣博士とすぐ友達になり、毎週登場する「ウルトラQ」「ウルトラマン」の怪獣達の情報を聞き、確認していたのだった。
 
 そして「ゴジラ」「ウルトラマン」といった数々の怪獣作品の生みの親の中心人物として、円谷英二監督が雑誌やTVのメディアで紹介されると、私にとっても憧れの人物となった。円谷英二監督は、今で云うところのルーカス、スピルバーグや宮崎駿監督みたいな存在だった。
 ・・・だが、我々子供達には大人気の怪獣とはいえ一般の評判は悪く、「暴力的だ!」という観られ方をしていて、PTA等のが「子供に観せてはいけない作品」とさえ言われていた。それで授業中に先生から「あなた達の尊敬する人物は誰ですか?」と質問され、皆からは「野口英世」「リンカーン」といった名前が挙げられていったので、そこで私は「円谷英二!」と答えると、先生は「円谷?オリンピック・マラソンの円谷幸吉選手ですか?」と訊ねるので「いえ、ゴジラやウルトラマンの監督さんですっ!」と答えると先生から、「そんな怪獣の監督を尊敬するなんて、やめなさい!」と怒られてしまった。とたんにドッと教室が爆笑の渦に包まれた。「まったくオマエは怪獣キ〇ガイだなあ!」と笑われたてしまったのだった。私は純粋な気持ちで尊敬する人物の名前を挙げただけなのに、先生から叱られ、友達から笑われるとは、とても理不尽な思いをしたのだった。

 ・・・現在円谷英二監督は、世界の偉人の一人として児童向け文学書にも描かれている程だが、当時の偏見は強く、こんな有様だったのだ。そればかりでなく、当時の日本SF界からの偏見も大変強く、「怪獣物はSFと呼ぶにあたいしない!」と切って捨てられていたぐらいだったから・・・。

 だがそんな偏見にも負けず、私は怪獣への熱を強めていった。当然、怪獣の着グルミも欲しくなり、母親にねだってオリジナルの怪獣の着グルミを作ってもらったのだった。
布製の怪獣タイプ衣装といった作りのこの物は、そう、現在の「怪獣」や「レッサーパンダ」「ピカチュウ」等の「着グルミパジャマ」の原型と言える作品に仕上がっていたのだった。私は「着グルミパジャマ」のルーツは母が作ったオリジナルの怪獣の着グルミが第一号だと思っている。


 そして熱心に励んだ怪獣ごっこだが、格闘の時、たまに間違って、本気で相手のパンチが顔面に当たってしまう事があるが、自分のパンチが相手に当たった時でも私としては、「自分はあれくらいのパンチにもガマン出来たのだから、相手もこれくらいのパンチなら耐えられるだろう。」と、勝手に思い込んでいた。そしてその考えはエスカレートして、本気で投げ飛ばしたり、肩の上まで担ぎ上げて投げ落としたりと、今にして思えばとんでもない暴力少年になってしまったのだろう。
 また、この頃は土地開発時期でもあったので、いたる所に醸成地があり、学校の裏にも大きな盛り土があって、その形が「ウルトラQ」の岩怪獣「ゴルゴス」に似ていたので、私が勝手に「ゴルゴス山」と命名して、友達を誘い遊び場にしていた。中央に大きな穴が開いており、私は良いトコロを見せようと、穴の縁に両手を付いて、一回転して穴の底に降り立つという技をキメていた。するとある日、小学生で体操を習っているヤツがやって来て、そいつは側転が上手かったので、体育の授業では皆の注目を浴びていた。そこで私は悪知恵で一計を企み、穴を指差し「おい、俺のマネ出来るか?」と挑発して、いつものように穴の縁に両手を付き、一回転して穴の底に降り立った。そこでそいつも同じく行うが、私の狙い通り彼は馴れた側転の要領で回転した!するとマットで行うのと違い、垂直の土壁に足を付き、穴底に全身を打ち付けてしまったのだった!
 「ギャハハハハ!」と私は狙い通りになったので大笑い!穴底に全身を叩きつけけた苦痛と皆の前で恥をかかされた悔しさで彼は大声で泣き出したのだった。
 ・・・が、これも冷静に考えれば、ひとつ間違えば頭から穴底に落ち、首の骨を折ったり頭蓋骨損傷したりで、大事故につながる危険性があった出来事だ。今にして思えば私は友達を殺していたかもしれなかったのだ!
 ・・・そんな傍若無人な有様だったので、とうとう、怪獣ごっこの相手たる友達が寄り付かなくなってしまい、母親がその子を連れてやって来て、「うちの子はいつもあなたに殴られたり投げられたりして、毎晩アソコが痛い、ここが痛いと言って泣いているんですよ!」と責められ、友人も「オマエとはもう、遊ばない!」と絶交宣言されてしまったのだった!・・・何という事だろうか、私はいつの間にか「イジメっ子」になっていたのだ。・・・これにはさすがに私もショックを受けた。いつも楽しく遊んでいる怪獣ごっこと思っていたが、友達連中にとっては苦痛でしかなかったのだ!

 それ以来私は相手を思いやりながら遊ぶようになったが、怪獣ごっこのエネルギーはその後柔道に打ち込む事になったのである。

 写真上は、母がシーツを改造して作ってくれた怪獣の着グルミ。現在における「着グルミパジャマ」のルーツたる造型に仕上がっている。
 これは近所の子供達にも好評で、彼らにも数着作ったそうだ。

  下の画は、当時私が初めて見たゴジラの姿を印象そのままに絵にしたもの。
 「キングコング対ゴジラ」の時の、ゴジラが正面を向いたスチールを観たという事が分かる。
 後年調べたところによると、「週間少年サンデー」(小学館)1965年8月15日号の裏表紙に載った、「マルサン・プラモデル」の広告写真を見て描いた事が判明。

怪獣少年

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